
例えば、
「仕事と家庭、どっちが大事なの?もう少し家事や子どもの相手やら家のことをしてほしい。」
と旦那さんに不満があったり、
「いつも仕事が忙しいと言われて中々二人の時間をつくってくれない。嫌いなら嫌いとはっきり言ってほしい。」
と彼氏に対して不安になったり、、
「結婚を考えているが、仕事と家庭の両立が難しそう。仕事を辞めて家庭に入るか、しかし今までせっかく積み上げてきたキャリアを捨てるには勇気がない。どちらを選べば良いのか。」
とライフスタイルの変化で大きな決断をしなければいけなかったり、、
ただ、なかなか答えや結論が出ない場合も多々あります。
そんなとき、少し身近な私たち日本人の特有の信仰文化を通して考えてみるのもありかもしれません。
神仏習合の文化
神社とお寺、ごく私たちの身近にある歴史的建造物ですが、神社は神道、お寺は仏教、と信仰対象が異なります。ただ、日本人はあまり意識せず、神社とお寺という異なる信仰の場所へ行くのです。それだけ日本人にとってはごく身近に神社とお寺の存在があると言えます。
少し、神社とお寺との関わりを思い出してみましょう。
初詣はお寺の除夜の鐘を聞き、
神社へ初詣へ行き、
お宮参りや七五三は神社、
観光では家族友人と神社やお寺へ両方参拝し、
結婚式は神社(もしくは教会)で行い、
お葬式はお寺のお坊さんがやって来る。
結構、混在していますね。途中、ちょっとキリスト教まで出てきたりして。
私たち日本人にとってはとても普通なことですが、世界的に見るととても斬新な、はたまた理解し難い光景のようです。
宗教文化があるところはキリスト教、仏教、イスラム教、ヒンドゥー教など、大概は唯一神の一神教。
そのため、他国の場合多くは仏教信仰の人であれば信仰は仏教オンリーになりますが、日本では従来の八百万の神様の感覚で仏様も一つの神様、つまり神も仏も同じという「神仏習合」での信仰が一般的になっています。これは日本特有のとても大らかな文化であると言えるのです。
現代の日本には仏教だけでなく、キリスト教やイスラム教や色々な宗教が入って来ているますが、仏教は奈良時代あたりより広まり、歴史が古いために「お寺」という形で古くから身近な存在として神社と共にあるのでしょう。
たまに「神社とお寺の違いってなんだったっけ?参拝方法の違いは?」なんて疑問が湧く時点で、神仏習合という日本独特の信仰文化の中で生活していることを証明しているとも言えます。
江戸時代・明治時代の神仏分離
このような独特の神仏習合文化ですが、江戸時代末期になると、日本固有の思想や精神を明らかにさせる国学が盛んになり、明治時代に、神社と仏閣をはっきり分けるように「神仏分離令」が発令されました。
神道国教化という政策があり、キリスト教を排除しつつ、神道を日本の宗教とし、天皇を神格化して日本全土を統一しようとした政治的背景が絡んでいます。
結局のところキリスト教の反発などで日本国憲法では「信仰の自由」が言われ、神道は宗教ではないという考え方に落ち着き、「日本には特定の宗教はない」という考え方にて当時の神道国教化の動きは収束しました。
しかしながら、明治時代の前までは1,000年以上も神仏習合の信仰により成り立っていた神社仏閣にとって、この明治時代の政策は大きな変化であったようです。
神社で「御神体を仏像とすることはNG」など神社とお寺を白黒ハッキリさせる基準が設けられたため、仏像など数多くの貴重な歴史的財産が破壊されるなど、運営体制として大きな変革をせざるを得なくなった神社仏閣は多く、竹生島や厳島神社などもその一つ。
現代での神仏習合
現代での神仏習合の考え方はどうでしょう。初詣やらお葬式の事例を挙げたように、庶民の感覚としては現代でも神仏習合は続いています。
往年の阪神タイガースファンなら分かるかもしれませんが、代打の神様と言われた八木選手が出て来た際は「神様、仏様、八木様」なんて言われていたもので、神も仏も同じようなものという感覚です。
無宗教と言いながら信仰を分け隔てなくする日本文化
このように現代の日本は昔ながらの神仏習合の信仰文化。日本人の大半の人は無宗教と答えるかもしれませんが、実は知らず知らずのうちに「神道&仏教」として生活しているのです。
海外に行った際に信仰は何か?と聞かれたら無宗教の人でもそう答えても間違いではないかと思います。
このように、日本人にとって神社とお寺との区別もさることながら、信仰というもの自体もファジーで曖昧な存在なのです。
白黒はっきりさせなくても良い?
このように神社とお寺との関わり方をみてみると、我々日本人がいかに曖昧なことを自然とやっていることが分かってきます。
「白黒はっきりさせたい性格です。」と自分で言っている人も、実は世界から見るととても不思議で曖昧な行動を取っているとも言えるのです。
白黒はっきりさせたい裏側の理由
神社とお寺の神仏習合の考えを改めようとした「神仏分離令」の背景の一つには、その考え方を利用して国家統一という政治的な施策を国民に対して行おうとしたところがあるようです。
そう、白黒はっきりさせることで、何かと効率的に、相手の事をこちら側に都合の良いように動かしている場合があるかもしれないのです。
仕事を辞めて家庭に入らなければ、、というパターンは勝手に自分でマイルールを作って、自分で自分を縛ってしまっている場合もあります。
白黒はっきりさせるために不要な曖昧なものは、神仏分離令の時に仏像が破壊されたように、何かを犠牲にする事で成り立つ危険性も含んでいるのです。
曖昧さを日常に取り入れると少し世界の見え方が変わる
神社とお寺の歴史を見ていくと、日本には八百万の神様というあらゆるものも大切にするような文化が根底にあることで、神仏習合の信仰文化ができたことが分かってきます。
現代の私たちの神社とお寺との関わり方が良い例ですが、はっきりできないものでも成り立っているものもあることが分かります。
もちろん、白黒はっきりさせた方が良い場合もありますし、効率的なところもあったりしますが、白黒はっきりつけられない、どちらも大切で曖昧な問題も世の中には意外なまでもとてもたくさんあります。
日本人らしく曖昧に考えてみる
そこで、ちょっと日本人のルーツに戻って曖昧な考えを取り入れてみてはいかがでしょう。
「仕事と私、どっちが大事なの?」と恋人に聞いていたところを、「本当は両方大事だけど、今は忙し過ぎて本当に余裕がないのかもしれない。だったら、もう少しだけ待ってみよう。」と、少し相手を待つ余裕が出てくるかもしれません。
「家のことをやって!」と言っても手伝ってくれない旦那さんには「家族との時間について、少し話してみない?」と話し合いの場にすると、相手がのってくるかもしれません。
「仕事を辞めて家庭に入るか。」と悩んでいた人は「時短勤務や自宅勤務で仕事と家庭とを両立できる方法を考えてみよう。」と、両方を選ぶ選択をすることもでてきます。
このように、何か選べないものに直面したときや、白黒はっきりできないものに出会ったとき、「どちらも大切にする曖昧な道」という日本人の考え方のルーツを思い出してみると、第三の道、新たな展開が開けるかもしれません。
白黒はっきりさせたいとき、神社とお寺との関わりから見える対処法